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被災地女子大生の幽霊の卒論が話題に! [命]

被災地の女子大生の幽霊に関する卒論が話題になっているとのこと。


その女子大生は、東北学院大の工藤優花さんです。


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「呼び覚まされる霊性の震災学」(新曜社)に収録された「死者たちが通う街 タクシードライバーの幽霊現象」と言う論文です。


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この論文は工藤さんが、宮城県石巻市のタクシー運転手さんが実際にあった幽霊について聞き取り、まとめた論文なんだそうです。


とても興味深く思いました。幽霊についての論文と言うだけであれば、差ほど興味をひかれなかったと思いますが、被災地である石巻市と言うこともあり、気になったのだと思います。


ところが、ネット社会にありがちなことですが、前後の話の脈絡が無視され、津波被災地で幽霊をのせたタクシー運転手がいると言うことだけがクローズアップされ、「幽霊はいる」とか「非科学的なもので、論文とはいえない」と言う論議になったわけです。


以下論文からの抜粋

震災で娘を亡くしたタクシー運転手(56歳)は石巻駅周辺で客を待っていた。震災があった3月11日から数ヶ月たった初夏、ある日の深夜だった。ファー付きのコートを着た30代くらいの女性が乗車してきた。目的を尋ねると、女性はこう言った。

「南浜まで」

「あそこはもうほとんど更地ですけど構いませんか。コートは暑くないですか?」

「私は死んだのですか?」

女性は震えた声で応えた。運転手がミラーから後部座席を見たところ、誰もいなかった。


別の運転手(49歳)は小学生くらいの女の子を乗せた、と証言している。

2013年の夏、時間は深夜だった。コート、マフラー、ブーツを着た少女がひとりで立っていた。不審に思いながらも「ひとりぼっちなの」と話す少女。家の場所を答えたので、そこまで連れて行き、手をとって少女を降ろした。

「おじちゃん、ありがとう」

そう話した少女は、すっと姿を消した。


石巻市では、津波などによる死者は3277人、行方不明者は428人に達しています。


確かに愛する家族であれば「行方不明=死」とは、簡単に割りきれるものではないでしょう。


いつまでも、「何処かで生きているのではないかと言う思い」は消えることはないでしょうね。


愛する人であれば、仮に幽霊であっても会いたいと願うことでしょう。


前者の体験をした運転手さんは、「『東日本大震災でたくさんの人が亡くなったじゃない? この世に未練がある人だっていて当然だもの。(中略)今はもう恐怖心なんてものはないね。また同じように季節外れの冬服を着た人がタクシーを待っていることがあっても乗せるし、普通のお客さんと同じ扱いをするよ』ドライバーは微笑んで言った」


後者の体験をした運転手さんは「『お父さんとお母さんに会いにきたんだろうな~って思っている。私だけの秘密だよ』。その表情はどこか悲しげで、でもそれでいて、確かに嬉しそうだった」。


何とも素敵なお話です。


愛する人の幽霊であれば=恐いものではないと言うのも頷ける話ですが、タクシーの運転手さんにしてみれば、お客様とは言えアカの他人です。


アカの他人の幽霊にもそのような気持ちを持てることが素晴らしいなと。


そのように思えるだけ、裏を返せば、突然多くの命を奪った東日本大震災の爪痕がいかに大きかったかを物語っているように思えます。


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赤川次郎さんの「午前0時の忘れ物」と言うタイトルの本があります。


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その本がふと頭に思い浮かびました。


この本は、バスの転落事故で湖の底に沈んでしまった死者たちが、突然訪れた別れに対して、愛する人たちに別れを告げるために、午前0時に湖の底から戻って来るのです。そして深夜のバス・ターミナルで、死者と生者の不思議な再会を果たすのです。


読んだのは大分以前ですが、涙したのを今でも覚えています。機会があれば、是非一度読んでみてください。とても読みやすい本だと思います。


僕自身は幸いにして、愛する家族や友人との予期せぬ突然の別れと言うものを経験したことがありません。


そんな予期せぬ別れがいきなり多くの人の身の上に起こったのです。


悔いが残らぬはずがありません。そんな後悔の念が幽霊となり現れ、その後悔の念が痛いほど理解できるから、恐怖心などないのでしょうね。


卒論を指導した社会学者の金菱清教授は、「幽霊をみることもよりも、幽霊現象を通して死生観、『死者』との向き合い方を考察すること」をこの論文の主題としていたようです。


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そしてこのようにコメントしています。


「生きている人と死者の中間に、行方不明に象徴される『あいまいな死』があります」

「当事者のあいだでも、生と死はきれいにわかれていない。遺体が見つからないため、死への実感がわかず、わりきれない思いを持っている人の気持ちとどう向き合うのか。幽霊現象から問われているのは慰霊の問題であり、置き去りにされた人々の感情の問題なのです」


正にその通りだと思いました。その割りきれない「あいまいな死」に対する思いは、きっと永遠に消えることはないのでしょうね。


ノーマ コーネット マレックさんの「最後だとわかっていたなら」と言う詩をご存知でしょうか?


震災でお亡くなりになられた方やそのご遺族の心境とはこう言うものなのでしょうね。


あなたが眠りにつくのを見るのが最後だとわかっていたらわたしはもっとちゃんとカバーをかけて神様にその魂を守ってくださるように祈っただろう

あなたがドアを出て行くのを見るのが最後だとわかっていたらわたしはあなたを抱きしめてキスをして、そしてまたもう一度呼び寄せて抱きしめただろう

あなたが喜びに満ちた声をあげるのを聞くのが最後だとわかっていたらわたしはその一部始終をビデオにとって毎日繰り返し見ただろう

あなたは言わなくても分かってくれていたかもしれないけれど最後だとわかっていたら一言だけでもいい・・・「あなたを愛してる」とわたしは伝えただろう

たしかにいつも明日はやってくるでももしそれがわたしの勘違いで今日で全てが終わるのだとしたら、わたしは今日どんなにあなたを愛しているか伝えたい

そしてわたしたちは忘れないようにしたい

若い人にも 年老いた人にも明日は誰にも約束されていないのだということを愛する人を抱きしめられるのは今日が最後になるかもしれないことを

明日が来るのを待っているなら今日でもいいはず。もし明日が来ないとしたらあなたは今日を後悔するだろうから

微笑みや抱擁やキスをするためのほんのちょっとの時間をどうして惜しんだのかと。忙しさを理由にその人の最後の願いとなってしまったことをどうしてしてあげられなかったのかと

だから今日あなたの大切な人たちをしっかりと抱きしめよう そしてその人を愛していること、いつでもいつまでも 大切な存在だということをそっと伝えよう

「ごめんね」や「許してね」や「ありがとう」や「気にしないで」を伝える時を持とう。そうすればもし明日が来ないとしてもあなたは今日を後悔しないだろうから


工藤優花さんが書いたこの卒論、とても意味のある卒論だと思いました。




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タグ:卒論 幽霊
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